極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
函館から、ウラジオストクから、様々な書き手がお届けします。

2011年のこと

函館校

2011年もまもなく終わろうとしています。「極東の窓」には、今年も学生たちがウラジオストクから、択捉島から、現在進行中の街の様子を伝えてくれました。
地元のラジオ局・FMいるかで昨年4月から毎月第3水曜日に放送している「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」は、言わば“身近なロシア探訪”といった内容で、本校教員を中心に、おもに函館在住でロシアにゆかりのある方々に出演をお願いしています。
「極東の窓」ではその予告を報じるのみですが、函館市内でしか聴けないのがもったいないくらい、どなたも話題が豊富でおもしろくて、毎回放送が楽しみです。
さて、2011年のことを振り返るとき、不幸な震災を抜きには語れないでしょう。あの日、函館校では翌日の卒業式の準備をしているところでした。長く続く不気味な揺れにいつもの地震と違う不安を感じ、外に出て様子をみては、また仕事に戻る、の繰り返しでした。校舎は坂の上にあるため、直接津波の被害は受けませんでしたが、事務室の窓からは波が岸壁を乗り越えて街を浸していく様子がはっきりと見えました。
翌日の卒業式も予定どおり行いましたが、夜に同窓会パーティーが行われた駅前のホテルでは1階が浸水し、3階のパーティー会場の両脇が近隣住民と函館駅で足止めを余儀なくされた人びとの避難所になるなど、卒業生にとっては混乱の中での旅立ちとなりました。
 今年大きな節目として、日本のハリストス正教会の基礎を作った聖ニコライの来日150年の祝賀がありました。聖ニコライの日本での足跡は1861年7月、ここ函館の地に降り立ったところから始まったもので、函館ハリストス正教会では様々な記念行事を予定しておりました。ところが、あの震災で東北地方の多くの教会や信徒が被害に遭ったため、急遽すべての行事は取り止めになりました。
しかし、当初函館校の講堂を会場とし、はこだてロシアまつりと共同で開催する予定だった、横浜国立大学 長縄光男名誉教授による記念講演会と函館ハリストス正教会聖歌隊のコンサートだけでも何とか実現できないものかと関係者に掛け合い、多くの人びとの協力により、その二つを実現することができました。
聖歌隊は聖歌やロシア民謡のほか、阪神大震災後に作られ、地震に負けず立ち向かう強い決意を示した合唱曲「しあわせはこべるように」を選び、東日本大震災で傷ついた被災地へのメッセージとして歌いました。生き残った者たちが亡くなった方の分まで毎日を大切に生きていこう、という歌声は、多くの聴衆の心に響きました。

同じく7月に開催された「ロシア文化フェスティバルIN JAPAN」のオープニングが函館で開催されたのも、そもそもは聖ニコライ来函150年を記念してのことでした。市内各所で様々な催しが展開されましたが、市民が無料招待されたピャトニツキイ記念国立アカデミー・ロシア民族合唱団の迫力のコンサート、ボリショイサーカスの鍛え上げられた技の数々など、普段函館のような地方都市では見ることができない素晴らしいものを、たくさん見ることができました。
ピャトニツキイ合唱団のコンサートは途中休憩なしの2時間ノンストップ、日本の合唱と違い、譜面も持たずに歌い踊り続けます。その記憶力、その声量と体力に、観ている私たちのほうが休憩を取りたいくらいに圧倒されてしまいました。
終了後、ある人が言ったのには、「このすごい体力、よくこの人たちに日本人が戦争で勝てたものだ」。日露戦争を描いたNHKドラマ「坂の上の雲」が放映されましたが、ドラマのクライマックス、旅順攻防の二〇三高地激戦のシーンは、実は昨年の秋、函館で撮影されたものです。津軽海峡を望む景色が、旅順に似ているのだそうです。
日本海を挟み、激しく日露が激突した明治期から100年以上の時を経てもなお、両国間には問題が山積していますが、ニコライが戦時にも日本に留まり守ろうとしたもの、それを考えるにも、いい機会です。
 今年11月には、函館ハリストス正教会の敷地内に聖ニコライのイコンが設置されました。ハバロフスクで制作されたこのイコンは当初、来日150周年記念行事に合わせてもっと早く到着する予定でしたが、震災の影響で遅れたため、ようやくの設置となりました。来年は聖ニコライ没100年、ニコライは困難を乗り越え、ふたたびこの地に戻り、函館の街をみつめています。来年こそ、よい年になりますように。

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子