極東の窓

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E.レベデフ(1879-1937):東洋学院卒・帝政時代最後の函館領事

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。

テーマ:E.レベデフ(1879-1937):東洋学院卒・帝政時代最後の函館領事
講 師:倉田 有佳(教授)
※以下の講座内容は、担当講師の倉田有佳教授がまとめました。

エヴゲーニ・レベデフ(Евгений Федорович Лебедев)は、1879年露暦1月14日に                              西シベリアのイシム(現チュメニ州)で生まれた。父はイシム宗教初等学校の教師で、自身はトボリスク神学校で学んだ後、1900年10月に東洋学院(極東連邦総合大学の前身)に21歳で入学し、日本語・中国語学科で日本語を専門的に学んだ。卒業後、東京の公使館、長崎・横浜・大連での領事館勤務を経て、1912年に函館に着任した(当初は副領事)。
当時の函館は、露領漁業(後の北洋漁業)の基地で、ロシア領事館の業務の中心は、漁業関連の目的でロシア極東のウラジオストクやカムチャツカ方面の漁場に向かう日本人漁業者の査証や日本船の証明書等の発給だった。領事が得意な日本語力を生かし、日本の漁業事情について情報収集し、本省(ロシア外務省)に報告書を送ることもしばしばあった。船見町の幸坂に面するロシア領事館は、執務場所であると同時に領事一家の居所(公邸)でもあった。函館時代のレベデフ領事は「日本人嫌い」で通っており、その原因は日露戦争にあると言われた。
日露戦争中、レベデフの身に何があったのか?1904年3月6日(露暦2月22日)、日本艦隊がウラジオストクの金角湾へ艦砲射撃したこの日、卒業間近の東洋学院4年生 だったレベデフら計7名は軍事通訳として遼陽に派遣された。その後レベデフはステッセル将軍付日本語通訳(肩書きは陸軍二等大尉)として、マカーロフ提督の死の瞬間を目撃し(1904年4月13日)、旅順開城・水師営での開城談判(1905年1月1日・2日)の場に居合わせた。ただし、「宣誓解放」したステッセル将軍と共に帰国したため、日本での捕虜収容所体験はなかった。
レベデフ一家が函館を後にしたのは、1925年2月、日ソ基本条約締結から一カ月後のことだった。日本政府がソヴィエト政権を正式に承認し、ソヴィエト政府から外交官が日本に派遣されることになったためである。地元紙は一家の行先について、メキシコとも、シアトル大学で学ぶ長男ユーリのいるアメリカとも報じた。日魯漁業株式会社の社長令嬢平塚千鶴子さんは、父常次郎が後年アメリカでレベデフの子どもに会った、と回想している(平塚千鶴子「ハイカラな街函館、謳歌した自由」『地域史研究はこだて』第12号(1990年))。また1923年から1927年まで函館で暮らしていたリューリ商会の一人娘エラさんは、「領事には子どもが3人おり、自分は一番上の息子[長男ユーリを指す]と仲良しになった」、「カリフォルニアで彼と何度か会いました」、レベデフは日本から「ただちにカリフォルニアへと去りました」(沢田和彦『白系ロシア人と日本文化』成文社、2007年)、などと証言している。アメリカに渡った可能性が強かったが、詳細は不明だった。
それが2023年10月初旬、アメリカから孫のグレック氏(父親は1906年10月東京生まれの長男ユーリ)がスーザン夫人と共に来日され、祖父ゆかりの地・函館まで足を延ばされたことにより、離函後の領事一家がたどった道が明らかにされた。すなわち、ユーリは一歩先にアメリカのシアトルに向かい、領事夫妻・函館生まれの弟と妹の計4名は、当初はメキシコで暮らし、1932年にアメリカ国籍を取得した後、カルフォルニア州南部に移り住んだ。そしてE.レベデフは1937年7月16日にカルフォルニア州サン・ディエゴで、アレクサンドラ夫人は1964年にアメリカで亡くなった。
来函時にいただいた家族写真の中で特に興味深かったのは、下記の函館の日本人と一緒に領事館で撮影された一枚である。撮影場所は、ロシア領事館1階テラスの外階段前である。写真の裏面には「Hakodate Aug.1916  Зинаида Николаевнa Юри, Я.」、改行して「Grandfather,  Baba,  Yuri, Daddy」と書き込まれている。中央でかがんでいる女性がジナイーダ・ニコラエヴナで、領事館に住み込みの家庭教師と思われる。「Baba[馬場?]」さんとアレクサンドラ夫人が腕を組んでいるように見えるため、二人は親しい関係にあったのだろう。英語は後日追記したような筆致である。アレクサンドラ夫人がアメリカ生まれの孫(グレック氏)のために書き加えたのかもしれない。1916年8月ということは、右端のユーリ少年はもうじき10歳。家族写真ならではの和やかな雰囲気が漂っているが、一人厳めしい面持ちで後ろに立っているのがレベデフ領事である。
写真と言えば、グレック氏とのやり取りで一番興味深かったのは、E.レベデフが東洋学院に入学した際の証明写真をこちらからお見せした時の反応だ。「笑っていない。ロシア人は笑わないのか?」。意表をつかれ、すぐに言葉が次げなかったが、グレック氏が生まれる前に祖父はこの世を去っており、写真で見る祖父に笑った姿がないことを不思議に思っていたということがわかり、質問の意図を納得した。なお、若い頃からアメリカ暮らしをしていた父ユーリは、「厳格だがよく笑う人」だったという。
グレック氏からは、親族に伝わるエピソードとして、領事館で一家が買っていた犬がいなくなり、新聞に広告を出したことを愉快そうに話された。後日、函館市中央図書館で新聞を手繰ってみると、「露国領事館」からの「尋ね犬広告」が見つかった(『函館毎日新聞』1923年12月26日(一))。また、一家が教育熱心だったことや音楽好きだったことにも触れられた。領事夫人が領事館内やアポロ音楽会が主宰する音楽会でピアノを披露し、ピアノの名手として知られていたこと、夫人が持参したドイツ製のベヒシュタインは、元町の工藤氏[函館高等女学校教諭工藤富次郎:倉田]が引き取り、「現在、会所町のピアノ教師佐々木幸子の娘の手許にそなえ付けて門下生に練習用として与えてある。」などと、一家が函館を離れて約10年後に地元紙が報じている(『函館新聞』1935年11月15日)。「函館大火」(昭和9(1934)年)後のことであるため、どこかに「レベデフ夫人のピアノ」が残っているかも知れない。ピアノの行方に関して何か情報をお持ちの方は、是非ともご教示ください。

1916年8月ロシア領事館にて(グレック氏提供資料)

※参考:倉田有佳「東洋学院を卒業した函館領事レベデフ」『日露異色の群像30 文化・相互理解に尽くした人々』東洋書店、2014年;倉田有佳「在函館ロシア領事E.レベデフの孫グレック氏の来函」『函館日ロ交流史研究会 会報』No.45号(2023年)。