極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
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ピオネールについて

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。
テーマ:「ピオネールについて」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(准教授)

 ピオネールのお話をする前に、少し私のことをお話します。私はソ連時代に生まれました。社会主義時代に生まれて、ロシアと日本の資本主義社会を経験しています。社会主義には悪いところがたくさんありました。けれど良いところもありました。社会主義の良いところは何だと思いますか?生活の不安は全くなかったのはよいことでした。またみんな平等で、とってもお金持ちもいなければ、とっても貧乏な人もいませんでした。教育も無料で、大学も無料でした。私は5年間ウラジオストクの大学に通いました。それも無料ですし、寮にも入っていましたが、お金はほとんどかかりませんでした。また返す必要のない奨学金もありました。医療も無料でした。生活の中でお金がかかることはありませんでした。当時は、将来について不安はありませんでした。
 さて、今日の話はピオネールです。ちょうど100年前の1922年5月19日、ピオネールの組織は作られました。この運動を指導したのはレーニンの奥さん:クルップスカヤでした。ソ連が崩壊するまでの間、ピオネールは存在しました。
 ピオネールは、ソ連時代の共産主義の少年団です。団体として、日本で例えるならボーイスカウトのようなものです。ピオネールに入れる子どもは9歳~14歳の子供たちでした。どんな人物が参加できるかというと、健康で、優秀で、品行方正な子どもたちでした。入れなかったのは、成績不良の子どもと牧師など聖職者の子どもでした。
 彼らの活動は、社会的な活動を通して、共産主義を勉強することが目標でした。しかし、子どもたちがすぐ共産党員になるわけではありません。あくまでも集団行動など共同で何かをするということを学ぶ場所でした。
 社会的な活動とは何かというと、古い本や紙を集めたり、鉄くずを集めたりする活動をしました。政治に関する特別な授業が行われることもありました。ピオネールの活動は、このほかに宮殿のような建物でサークル活動が行われました。合唱や楽器、バレエにダンスなどのサークルがあり、普段の活動を指導する女性教員のほか、これらの活動には専門的な国で雇われた人が指導していました。
ピオネールは、子どもたちの夏休みの期間も活動しました。夏休みは三か月もあったので、ピオネールキャンプというものが行われました。私も3回参加しました。そのうち1回は黒海の近くのキャンプに行きました。たき火(キャンプファイヤー)ができるかどうかもピオネールの大切な力の一つでした。
ピオネールの下位組織には、オクチャブリャータというものがありました。ロシア語でоктябрятаと書き、10月を意味します。ロシア人にとって10月は革命を意味し、とても重要なのです。そこから名前が付けられた組織です。ピオネールより年齢の幼い子どもが対象の組織です。彼らは星型のバッジをつけていました。
 そしてピオネールの上の組織は、コムソモールといいます。子どもというより青年組織です。共産党の青年組織で28歳くらいまでの人が入れました。炎を象ったバッジをつけていました。
ピオネールのシンボルは赤いスカーフです。
 チェブラーシカのアニメの中で「ピオネールにはいりたい!」という話があります。この話の中でも赤いスカーフをつけて行進している子どもたちの姿が描かれています。そしてその行進している姿に憧れるチェブラーシカがいます。
 私たちの世代の人たちは、ピオネールに誇りを持っていました。このお話しでも同じように描かれています。
 当時の国家では、子どもたちの教育に力を入れていました。子どもは大切なものでした。社会主義が良かったとか悪かったとかという話ではなく、私は子どもの頃、ピオネールの活動をして良かったと思います。宮殿での合唱サークル、キャンプで行った黒海、色々な屋外での活動。今の子どもたちは、ずっとスマートフォンを見ています。ピオネールのような外でする活動は子どもたちにとって良いことだと思います。沢山のものを自分の目で見て、自分で経験すること。それはロシアの子どもだけでなく、現代の子どもたち全員に、私は伝えたいです。