極東の窓

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どのような理由でクレムリンは赤くなったか

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。
テーマ:「どのような理由でクレムリンは赤くなったか」
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校教授)
今日(こんにち)、モスクワのクレムリンは重要な建築物です。15世紀末に建てられ、昔も今もロシア国家のシンボルであるクレムリンは、数百年間にわたりロシアの君主の住まいでした。
クレムリンは多くの出来事と人々を目撃しました。1571年モスクワを略奪したクリミア汗国の騎兵たち、1612年にモスクワを占領した大ポーランド・リトアニア王国の軍隊、1812年にモスクワに入城したナポレオンと彼の親衛隊の兵士を目撃しました。彼らはモスクワ大火事からクレムリンを救いました。
クレムリンはまた、ピョートル一世とエカテリーナ二世、レーニンとトロツキー、スターリンとフルシチョフを覚えています。クレムリンの城壁には非常に長い記憶が刻まれているのです。

皆さんが目にしているのは「赤の広場」に面したクレムリンの城壁です。

これはモスクワ川から見た古典的なクレムリンの景色です。エカテリーナ2世の命令によって建てられた大クレムリン宮殿も見えます。

14世紀に最初の石造りのクレムリンが石灰岩のブロックで造られた時、モスクワはбелокаменная(ベロカメンナヤ)と名づけられました。これは文字通り「白い石で造られた町」という意味です。クレムリン内のすべての大きな聖堂や要塞の城壁は白い石灰岩のブロックからできていました。
白い石の寺院建設は、スラブ世界では広く行われていました。ロシアには「ベルゴロド」という名の町があります。「ゴロド」は「町」、「ベル」は「白い」という意味です。ユーゴスラビア(現在のセルビア)の首都はベオグラードです。これもまた「白い町」という意味なのです。白い教会や白い要塞の壁からこのように名づけられました。
しかし現在のクレムリンは赤レンガ造りの建築物ですから、「白い」と呼ぶわけにはいきません。さらに、クレムリンの建築はロシアの他都市のクレムリンや修道院の建築と少し違っています。モスクワのクレムリンの特徴は今も明らかですが、15世紀末から16世紀初めの頃のロシア人はモスクワのクレムリンを見て西ヨーロッパのカトリック文化の影響を受けていると考えていました。

これは有名なトロイツェ・セルギエフスキー修道院です。ロシア正教会の中心となる教会です。それを取り囲んでいるのはあまり高くない要塞の城壁です。たくさんの大きな尖塔がまず目に飛び込んできます。これは15、6世紀ロシアの要塞建築スタイルの基本です。

こちらは、有名なソロベツキー修道院です。モスクワの遠方の北に位置します。大昔、多くの聖職者や貴族たちの牢獄としても使われました。スターリンの時代には、ソロベツキー収容所の中心的建物でした。ここでは何万人もの人が亡くなりました。ここでも大きな塔とそれほど高くない城壁が見られます。


そして、これは有名なキリロ・ベロゼルスキー修道院です。ここにはかつてモスクワ公国の宝物が所蔵されていました。ここでもロシアの要塞の建築スタイルを見ることができます。


そしてこれは、ロストフのクレムリンです。とても美しいです。しかしモスクワのクレムリンと似たところはありませんね。
どうしてモスクワのクレムリンはその他のロシアのクレムリン(要塞)や修道院と似ていないのでしょう?ここには、いつものように政治の問題と財政危機の問題が絡んでいます。
1454年にトルコの軍隊がビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを占領しました。ビザンチン帝国は正教会の中心でした。ところがこの国家が滅亡してしまったのです。それと同時に、コンスタンチノープルの市街戦において、最後の皇帝も亡くなってしまったのです。
しかし、皇帝の弟が生き残り、家族とともにイタリアに逃れました。その子供の一人がゾーヤという女の子でした。ゾーヤ・パレオログです。パレオログとは最後のビザンチン皇帝の名字です。ゾーヤはローマで大きくなりました。当時ローマは西ヨーロッパ文化の中心であり、またカトリック教会の中心でもありました。ローマはカトリック教会の最高権威であるローマ法王の居住地でもありました。
西ヨーロッパの諸国はオスマン・トルコの急速な増大化を恐れました。トルコ人はボルガル、セルビア、ギリシャを征服し、南側から西ヨーロッパを脅かし始めました。西ヨーロッパ諸国はオスマン・トルコ帝国に対し聖戦を開始することにしました。
西ヨーロッパ諸国には東ヨーロッパの同盟者が必要でした。それにはモスクワ大公国がうってつけでした。モスクワ大公国はすでにキプチャク汗国の政権から解放されていました。モスクワ軍が北方からトルコ帝国を攻撃し、コンスタンチノープル、ボルガル、セルビアを奪回するという計画でした。
戦利品の半分と領土の半分を自分が取り、残りを西ヨーロッパ諸国が受け取るという計画でした。こうした同盟を実現するため、ローマ法王はゾーヤ・パレオログをモスクワ大公国の皇帝イワン3世にめとらせようと提案しました。
その頃、イワンは「男やもめ」でした。妻は数人の子供を残し亡くなっていました。
イワンはモスクワにいたローマ大使からローマ法王の提案を告げられました。この結婚の承諾の前に、イワンは花嫁を見てみたいと思いました。彼はローマに使節団を送り、彼らはイワンにゾーヤの肖像画を持ち帰りました。彼は肖像画が気に入りました。そしてゾーヤ・パレオログは遠方の未知の国モスクワに旅立ちました。
ゾーヤはイワンより4歳年上でした。彼女は大変しとやかな、美しい女性でした。美しい肌はモスクワでは女性の健康美の重要なシンボルでした。ゾーヤはいくつかのヨーロッパ言語を自由に話しました。母語であるギリシャ語のほかに、イタリア語、フランス語、ラテン語などです。
ゾーヤが初めて将来の夫に会ったとき、イワンは32歳でした。彼は長身で、強靭な肉体を持ち、また美しい黒い瞳をしていました。非常に怒った時は、その眼は周りの人間に大変強い影響を与えました。多くの女性ばかりでなく、男性でさえもその目に見つめられて気を失いました。しかし機嫌が良い時には、イワンはモスクワ一の美男子でした。
1475年に結婚してゾーヤはロシア風にソフィアと改名し、モスクワ皇帝の妻となりました。初め夫婦はお互いにギリシャ語で話していました。ラテン語がカトリック教会の言語であったのと同じく、ギリシャ語は正教会の言語でしたから、教養あるロシア人としてイワン3世はギリシャ語を知っており、少し話すことができたのです。しかし妻のソフィアはしばらくするうちにロシア語を自由に話せるようになりました。
イワンにとってゾーヤとの結婚は大きな意味がありました。まずビザンチン皇帝であるパレオログ家と婚姻関係です。妻の持ち物すべてにビザンチン帝国の「双頭の鷲」の紋章が入っていました。ゾーヤ・パレオログがロシアの皇帝に嫁いだ後、この紋章はモスクワ大公国の紋章となりました。
2つ目に、妻が運んできたヨーロッパ文化との出会いでした。ソフィアはヨーロッパの生活について、またイタリアやフランスやその他の都市についてイワンに多くを語って聞かせました。
3番目に、賢明な妻ソフィアはイワンにとって最も重要な相談役となったということです。彼女はイワンを大変よく理解し、彼が自分で考えひそかに願っていることだけを彼に勧めました。そしてそのようにしてできたのがモスクワのクレムリンだったのです。
白い石でできたモスクワのクレムリンは15世紀末にはボロボロになりました。特にクレムリン内部にあった古代の教会や聖堂は古くなりました。イワンはクレムリンを再建することにし、より美しく、豪華で現代的なものにしようと考えました。
当時モスクワ大公国には、ビザンチン帝国亡き後、モスクワが正教会の中心であるという思想が生まれました。つまり「第3のローマ」という考え方です。第1のローマはローマ帝国の首都であり、第2のローマはビザンチン帝国の首都、第3のローマはモスクワ大公国の首都である、ということです。
クレムリン再建のために、ソフィアはイワンにイタリアから建築家を呼ぶようアドバイスしました。第3のローマには伝統的なロシアスタイルとは異なる新たな建築が必要である、というわけです。ビザンチン式に似た、より背が高くて明るい聖堂を造らねばなりませんでした。
イワンはしばらく考えてそれに同意しました。新しい聖堂建設のためにイタリアから設計技師と建築業者が呼ばれました。彼らとともに技術者や画家、ガラス拭き職人や機械工、銀行家や宝石職人もやってきました。全部で500人、あるいはそれ以上のイタリア人たちでした。
彼らはすべてカトリック信者でした。当時ロシア人はすべてが正教徒でした。正教会とカトリック教会の間には当時非常に複雑な関係がありましたが、それにもかかわらず、モスクワではイタリア人とロシア人の間に宗教的対立はありませんでした。それはひょっとすると全員が共通の、新しいクレムリンの建設という事業に協力して向かっていたからでしょう。

白い石のクレムリンの中に、美しく明るくて背の高い新しい聖堂が立ちました。しかしこうした建築には莫大なお金がかかりました。従って、白い石で城壁を作るためのお金が残っていませんでした。それで、白い石の代わりにより安価な粘土を使うことにしました。粘土からレンガを造り、それで新しい城壁が作られたのです。このようにして新しいモスクワのクレムリンが出来上がりました。この時から、モスクワ大公国の全土にレンガの建物が流行となっていきました。
最初にも言いましたが、モスクワのクレムリンの建築には強い西ヨーロッパの要素がありました。それらがモスクワっ子たちにも気に入られるようにするために、その赤レンガの城壁には白い石灰が塗られました。そしてこの白塗りはその後、赤レンガで造られたロシアの他のクレムリンや修道院でも伝統となりました。


キリロ・ベロゼルスキー修道院の城壁とロストフのクレムリンをもう一度ご覧ください。それらは赤レンガからできており、その上に白い石灰が塗られています。
しかし、もし財政に余裕があれば、要塞の塔と壁は白い石で造られているところもありました。その残りはレンガで、という具合です。その良い例はザライスクのクレムリンです。


これはザライスクのクレムリンです。ご覧のように、白い石でできている部分が多いですね。
モスクワのクレムリンの話に戻りましょう。その後どうなったのでしょうか?モスクワの新しいクレムリンはその後長く立ち続けました。15世紀終わりに作られ、21世紀の初めまで生きながらえたのです。その長い年月の間に何度か改修されましたが、基本的には誕生した時のままの特徴を残しています。
1503年にソフィア・パレオログが亡くなりました。死の直前に彼女はその息子ワシーリーを皇帝の後継者にしました。その2年後にイワン3世も亡くなりました。結局、彼は西ヨーロッパのためにオスマン・トルコ帝国と戦うことはありませんでした。
かくしてモスクワではイワンとソフィアの息子ワシーリー3世が即位しました。世継ぎにあたって彼は両親から多くの複雑な政治的問題と共に、繁栄する首都モスクワと新しいクレムリンを引き継いだのでした。