ブラート・オクジャワについて
一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。
テーマ:ブラート・オクジャワについて
講 師:イリイナ・タチヤーナ(准教授)
ロシアで私の年代なら誰でも知っている歌手がいます。ブラート・オクジャワです。彼の歌は、あまりにも有名すぎます。たとえば、職員室でこの資料の準備のため、詩の音読をしていたら、隣にいた先生が歌い始めるほどです。
今日は、彼の人生とそして実際に歌を聴いてもらい、一緒に歌を歌いましょう。
ブラート・オクジャワは、1924年モスクワで生まれ、モスクワで育ちました。父親はグルジア人で、母親はアルメニア人でしたが、彼は自分がロシア人だと自信を持っていました。しかし、第二次世界大戦中、父親はスターリンに銃殺され、母親も収容所に入れられました。彼も戦場へ行きましたが、怪我をして戻ってからは教師として働きました。その傍ら、詩を書きました。
彼の詩に音楽が付き始めたのは、友人から習ったギターがきっかけでした。ギターが弾けず、ただの作詞家でしたが、徐々に弾けるようになって、自分で弾いて歌うようになりました。シンガーソングライターです。ロシアでは、バルド(Бард)と言いますが、この当時このような人はおらず、先駆けとなります。
最初は、友人に教えてもらって、仲間内に披露するだけでしたが、それの評判がよく、1961年、初めてのコンサートを行います。翌年1962年には、初めての映画音楽も作曲します。こうして徐々に人気が出て、1989年には日本でコンサートもしました。
彼の歌はあまり陽気なものはありません。少し皮肉めいた、もしくは何か考えさせられる深い内容の歌詞ばかりです。それは彼の人生に関係しているかもしれません。
彼は二度結婚していますが、最初の妻ガリーナとの間に二人の子どもをもうけます。しかし、一人は生まれてすぐ亡くなってしまい、二人目はドラッグに溺れてしまいました。これは彼にとって悲しいことだったと思います。
二番目の妻はオリガといって、彼が1997年に亡くなるまで一緒にいました。オリガとの一人息子のアントンは立派な作詞家になりました。
私は彼の両親や、また最初の妻との間の子どものことを考えると、これらが歌に影響を与えているのではないかと思いました。本当かどうかは分かりません。だけれど彼の切ないメロディーと歌詞が多くのロシア人の心を惹きつけたことは確かです。
それでは、先ほども話した1989年の日本公演の映像の一部を一緒に見ましょう。