極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
函館から、ウラジオストクから、様々な書き手がお届けします。

ロシアのバレエ

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。
テーマ:ロシアのバレエ
講 師:イリイナ・タチヤーナ(准教授)

皆さんはこの人をご存知ですか?若いころのピョートル・チャイコフスキーです。髭が短いので、見たことのある写真とイメージが違ったかと思います。
今日は「ロシアのバレエ」をお話しするにあたって欠かせない、このピョートル・チャイコフスキーに焦点を当て、有名なバレエ作品を紹介します。
ピョートル・チャイコフスキーは、子どもの頃から音楽の才能がありましたが両親の教育の方針もあり、音楽学校には進学しませんでした。10歳の時にサンクトペテルブルクにある、法律学校に入学し、寮生活をしていました。親の目の届かないところで、歌を勉強し、この法律学校の聖歌隊に入りました。一つの転機は、母の死でした。彼が14歳の時、母親はコレラで亡くなりました。この時代ではよくあることでしたが、チャイコフスキーにとっては非常にショックな出来事でした。この頃から作曲をするようになったと言われています。
それでも彼は音楽の世界にまだ入っていません。法律学校を卒業後は、法務省に就職しました。3年程経ったある日、もう一つの転機が訪れます。知人からの紹介でロシア音楽協会を知り、本格的に勉強を始めました。この音楽協会はのちに、ペテルブルグ音楽院となるものです。こうして、法務省の仕事を辞め、音楽の道に進むことに覚悟を決めました。
音楽院を卒業後は、モスクワの音楽学校で教師となりました。教師の仕事は大変忙しく、作曲活動はあまりできませんでした。
チャイコフスキーのファンだった、ナデージダ・フォン・メックという未亡人がいます。当時の年収が2700ルーブルの時代に、彼女は6000ルーブルを彼に援助すると言いました。彼らはたくさんの手紙のやりとりをしました。これは今でも残っています。14年間で約1200通にもおよびました。しかし、彼らは一度も会うことはありませんでした。不思議ですね。
チャイコフスキーには、もう一人熱烈なファンがいました。アンタニーナ・ミルコワです。彼女もまた手紙を彼に送りました。そこには「私と結婚しなければ自殺する」というような内容も書かれており、チャイコフスキーは父親に相談して、結婚することに決めました。こんな女性ですから、結婚生活は長くは続きませんでした。チャイコフスキーは、彼女から逃げました。離婚を望みましたが、彼女は応じませんでした。彼女はチャイコフスキーより長く生きました。しかし、最後の20年ほどは精神科に入院していました。彼女は最後まで、チャイコフスキーの妻だと名乗っていたそうです。
さて、彼が結婚した1877年、この頃に彼の代表作となるバレエ音楽の一つ『白鳥の湖』が完成しました。彼の有名なバレエ音楽の作品は他に2つありますね。皆さんご存知ですか?『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』ですね。
『くるみ割り人形』はチャイコフスキーが手掛けた最後のバレエ音楽です。彼の作品の中でも特別なもので、音楽のイメージも他と違います。
私は芸術的な作品が好きです。ウラジオストクにはマリインスキー劇場があり、休暇中はよく見に行きます。ロシア人にとって、バレエは人気のある舞台芸術のため、大きな劇場が国内にはいくつかあります。そんなに高くない値段でチケットも購入することができ、親しみやすい芸術の一つです。中でも、この『くるみ割り人形』のバレエは、見ていて楽しいものです。初めて見る人も、オペラやバレエなどのクラシックにあまり興味のない人でも、この劇では、様々なジャンルのダンスや音楽が流れ、飽きることはないでしょう。例えば、スペインのダンス、グルジアのダンス、中国のダンス、アラビアのダンス、ロシアのダンス、そして花のワルツを見ることができます。これから、もしバレエを見る機会があれば、『くるみ割り人形』を私はお勧めします。