函館にやって来た二人の「キセリョフ」- ロシアに帰化した元漂流民の通訳とその子孫を名乗るソ連領事-
一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。
テーマ:「函館にやって来た二人の「キセリョフ」ロシアに帰化した元漂流民の通訳とその子孫を名乗るソ連領事
講 師:倉田 有佳(教授)
一人目のキセリョフは、ロシアに帰化し、ピョートル・キセリョフと名乗るようになった石巻「若宮丸」の元漂流民・善六のことである。二人目のキセリョフは、函館の二代目ソ連領事ドミートリ・キセリョフで、善六の子孫を自称した。
善六は、1811年、「ディアナ号」艦長ゴロヴニンが、南千島の海域を測量中、国後島で日本側に捕縛された「ゴロヴニン事件」の解決のため、「通訳キセリョフ」として1813年に「ディアナ号」で副艦長のリコルドらと共に函館にやって来た。ゴロヴニン釈放がかかった日露会談の会場となった「沖の口番所」(※)に上陸したのは、西暦1813年10月9日(文化十年九月十七日)のことである。ロシア側を代表してリコルドが、「会見が友好的な雰囲気である」と口火を切り、善六がこれを日本語に訳した。すると幕府高官たちは笑顔を見せた(リコルドの手記 ”Записки флота капитана Рикорда о плавании его к японским берегам в 1812 и 1813 годах и о сношениях с японцами.” にはНачальники улыбнулись,とある)。善六は日本側の返答を通訳するために待ち構えていたが、その声は聞き取れないほど小さく、高官の隣に座っていた下級役人(村上貞助)が突然、ロシア語に通訳した。村上貞助は、松前に幽囚中のゴロヴニンからロシア語を学び、ゴロヴニンを驚かせるほど上達が早かったということだが、リコルドも、貞介がかなり流暢なロシア語を話すことを瞬時に捉えた。上官ゴロヴニンの釈放がかかったこの重要な局面では、幕府の役人貞助に通訳を一任すべきと判断したのであろう、その先リコルドは貞介に通訳を任せた。善六はどれほど落胆したことだろう。リコルドに対する失望感もあっただろう。というのも、善六は、漂流という不可抗力とはいえ、国外に出てしまい、しかも自分の意志で帰化した。国禁を犯しての日本上陸に、在ロシア20年、当時40代半ばとなっていた善六は、人生を懸けて通訳として臨んだからだ。
ただし、善六の弱点は、ロシア語よりも、(公式の場で求められる)日本語力にあり、先の幕府高官の「笑い」は、善六の日本語に対する「嘲笑」だったような気がしてならない。確かに公式会談での通訳を担ったのは貞介だったが、釈放にかかる事前準備の段階の通訳・翻訳作業や、来函後の「ディアナ号」船員と高田屋嘉兵衛の息子の会話といった、草の根レベルでの日ロ交流に寄与したことを忘れてはならない。良きにつけ悪しきにつけ、漂流後最初で最後の日本上陸地となった函館での14日間は、善六には忘れ難い体験として記憶されたはずである。
無事釈放されたゴロヴニンら計8名、そしてリコルドと善六を乗せた「ディアナ号」が函館を発ったのは、西暦1813年10月22日(文化十年九月二十九日)のことだった。その約100年余り後、ドミートリ・キセリョフがソ連領事として着任した(1928年7月)。
在敦賀ソ連領事の頃から、日本人そっくりな美しい妹がいる、と新聞記者に語っていたが、函館着任後は、「函館の人であった日本人の曾祖父」は、「安政年間の頃函館に住んでいた千石積の船頭某」で、暴風雨で難破した船が漂流した後、「ロシヤの一漁村に辿りつき、九死に一生を得た」。「日本へは帰らずキセリヨフ家の婿入りをして三人の子供を儲け(ママ)、ロシア人として一生を暮らした。それから四代目の当主がキ領事である」、などと函館との縁が強調された。
開設直後の市立函館図書館に領事館のガリーナ通訳を伴って訪れ、古い資料を探し、曾祖父の子孫を見つけようとした。だが、上述のような不正確な情報が仇となってか、祖先の縁は見出せなかった。
1929年5月、エレーナ夫人と共に本国に帰国することになった領事は、ウラジオストクに向かう船に乗る直前の敦賀で、「在外10年の生活中日本に於ける生活」が、「恐らく生涯を通じ最も光輝あり印象深いもの」だ、と新聞記者に語った。敦賀での約3年は、領事館の開設場所をめぐる雑務に追われ、領事館の館員間の関係はぎくしゃくしていた。一方函館では、日本びいきの「下駄領事」と謳われ、夏には極東大学在学中の息子とその許嫁を呼び寄せ、領事館の裏庭でテニスを楽しんだ。
現在では、善六に洗礼を施した代父が、イルクーツクの富裕な商人ステパン・フョードロヴィチ・キセリョフであることや、キセリョフ領事がキセリョフ家の養子であって、善六と血縁関係にはないことが判明している。だが次のような疑問が残る。領事が父祖ゆかりの地として、生まれ故郷の「石巻」でも、日本で最初の赴任地「敦賀」でもなく、なぜ「函館」を語ったのか?函館の発展に尽力した豪商、エトロフ航路の開拓者、そしてゴロヴニン事件をリコルドと共に解決した人物として知られている「高田屋嘉兵衛」を連想させるような出自を領事が語ったのはなぜか?
キセリョフ領事の当時の職務や職責(※※)を勘案すれば、「先祖は日本人」という発言に作為(政治的意図)が全くなかったはずはない。そして「函館」は、新任領事が青森からの連絡船で函館港に到着し、出迎えの市代表らを前にして、函館港が良港で、ソ連との取引上重要な地点で、120年前の高田屋嘉兵衛の頃から重要な関係にある、とまず初めに発言するほど、当時のソ連から重視されていた。
二人のキセリョフに「函館」は特別な場所として「記憶」され、ゴロヴニン釈放のための人質としてリコルドによってカムチャツカに連れて来られた「嘉兵衛」は、リコルドからの信頼を得、「ディアナ号」の船員からも一目置かれた。嘉兵衛に成りかわりたいとの思いから、善六が嘉兵衛を連想させるような出自を子孫に語った可能性も否定できないが、両国の友好の象徴的人物で、かつ函館にゆかりの深い嘉兵衛を、キセリョフ領事が新任地函館で良好なスタートを切るために持ち出したと考えるのが妥当かもしれない。
(※)蝦夷地に出入する旅人、貨物を検査し、税金を徴収していた。ゴロヴニンやリコルドの手記にはтаможня(税関)と書かれている。
(※※)ノボシビルスクのアルヒーフ所蔵のキセリョフの個人文書から、1920年5月から赤軍諜報部におり、「労農赤軍諜報局の仕事と同時に、私は中央からの命令に従い10年にわたり外国でオゲペウのラインでの仕事も中国、日本で実行した」ことがわかっている(寺山恭輔「日本人漂流民の子孫と名乗るソ連外交官キセリョフ」『窓』126号(2003年)、10頁)。
参考:倉田有佳「ロシアに帰化した漂流民善六が通訳キセリョフとして「来日」した地・函館」『会報 ナデージダ』石巻若宮丸漂流民の会、Vol.20 No.49(2022年)。