外国人にとって、日本語のどこが難しいか?
一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。
テーマ:「外国人にとって、日本語のどこが難しいか?」
講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)
これは、外国人のグループに日本語を教えていた日本人の先生の思い出話で、初級クラスの後半に、日本の着物について説明した文章があります。「あわせ」の説明に続いて、次の一文があります。
「わた入れには おもてと うらの間に わたが はいっています。」
これを読んだ、博士号を持つほどのロシアの婦人が、突然こう言い出しました。
「“わた入れ”という着物と、“表虎ノ門”の関係がよくわかりません。」
私はこう言われたとき、一瞬耳を疑いました。しかし、こういう突飛な質問にも、必ず連想の糸があるものです。それをたどっていくと、いかにも彼女らしい、無理のない、いくつかの原因がみえてきました。
まず彼女の頭に浮かんだのは、地下鉄の二つの駅、彼女がよく乗る銀座線の「表参道」と「虎ノ門」だったのです。彼女一流の頭の回転で、「おもて参道」があるからには「おもて虎ノ門」もあるはずだととっさに考えてしまったのです。「オモテ・トーラノモン。こうなると「間」という字まで「門」に見えてきます。そこで、おかしい、「わた入れ」と町の名前がどういう関係があるのかしら……と、そちらのほうに考えがそれていったという次第です。
ここにはもう一つ、音声の問題が絡んでいます。「虎」は「トラ」であって、「トーラ」ではありません。日本人は音の長さを聞き分ける耳を持ち、短音と長音をはっきり区別しますが、これが外国人には大変むずかしいのです。彼女の母国語ロシア語では、音の長短は意味を区別する決め手にはなりません。意味を強めるときには、音も長く伸ばすのが普通です。だから、トラノモンがトーラノモンになっても一向にかまわないわけです。
すでに自分の得た知識のほうへと引き寄せて、言葉の意味を判断しようとする点では、日本人も外国人とまったく同じことをしているわけです。ただ、その知識の質と量とが、ケタ外れに違うのです。
音声と文字の知識とは、このように複雑に絡み合いながら、文章の意味の決定に加わってきます。言語能力というものは、まさに人間のあらゆる知識の上に築かれるのです。基本文型をマスターし、試験で満点を取ったとしても、生活体験に欠けていたり、思想的に未熟であったりすると、その人の理解力と表現力とは、ある線以上には伸びません。
そういう意味では、外国語を真に深く理解できる人は、まず自国語において十分な体験と成熟した思想性とを身につけた人であるといえます。しかし同時に、先入観という障壁をも形成します。しかもその外国語による現地での生活体験の欠如という、決定的な障壁と裏腹の関係にあります。
文字、特に漢字の難しさは、しばしば指摘されるところです。たしかに漢字を用いない地域の人びとにとって、これは大きな障壁に違いありません。しかし、ヨーロッパ人もある程度漢字がわかり始めると、むしろ漢字があるほうが意味が取りやすくなるようです。ひらがなではなくて、漢字で書いてあれば意味が取れたのに、と思う人も少なくありません。「わた入れ」の場合なども、「表と裏の間に」と書いてあれば、「表虎ノ門に」と読み違えたりしなかったことでしょう。
文字についての一番根本的な障壁は、やはり「かな」の問題―つまり「音声」と「表記」の関連だと思います。このことは、従来ややもすると軽く見られてきた傾向があります。日本語は子音も母音も他の言語ほど複雑ではない―だから、「かな」文字などはちょっと習えばすぐわかる、と思われてきたのです。たしかに個々の音についていえば、そのとおりだと思います。しかし、音声は組み合わされて初めて意味を持ちます。その相対的な関係をどう把握するかということは、発音のしやすさとはまた別の問題なのです。
*このほか、日本語の「拍(モーラ)」について、例を挙げながら日本人と外国人の感じ方の違いについて比較しました。