盲目の詩人・エロシェンコ
一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。
テーマ:「盲目の詩人・エロシェンコ」
講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)
エロシェンコ・ワシーリーと言っても、ご存知の方は少ないでしょう。大正から昭和初期にかけての童話作家・詩人で、親しい人の間では“エロさん”と呼ばれていました。肖像画(中村つね画・東京国立近代美術館蔵)を見ると、まるで赤鬼のような風貌です。彼の歩んだ苦難の人生と、それに対する怒りが色濃く投影されているのでしょう。それでも、彼の何者にも屈しない孤高の精神は、作品として今でも輝きを放っています。
彼の名前が知られるようになったのは1920年代以降のことでした。1914年に来日し、東京を中心に活動しました。当時東京には多くの芸術家・作家・音楽家が集まっていました。
エロシェンコは、1890年1月12日、ロシア南部クルスク県(現在のべルゴロード州)のオブホフカという小さな村で生まれました。4歳のとき、はしかの高熱により失明し、9歳でモスクワ盲学校に入学しました。この学校は退役した陸軍大佐が校長でしたので、大変厳しく閉鎖的でした。教師から理不尽な虐待を受けるうちに、反骨精神が養われました。ここで学んだ9年の間、自宅に戻ったのは、たった1回だけでした。
卒業後、モスクワの盲人オーケストラに入り、レストランなどで演奏していました。その店に時々来ていた婦人から才能を見込まれ、ロンドンの盲人師範学校で正式に音楽を習うよう進められたのですが、外国語ができなかったため、エスペラントを教えられました。1912年2月、イギリスへ渡り、音楽と英語を学びましたが、イギリスの規律は厳しく、亡命中の革命家・クロポトキンを訪ねるなどしたため、エロシェンコは放校になりました。
一旦故郷に戻ったエロシェンコは、日本では盲人もみなマッサージなどをして自活していると聞いて、1914年4月に来日し、雑司が谷にある東京盲学校に入学し、そこで指圧を勉強します。在学中はバラライカを弾きロシア民謡を歌うなどして人懐こく、劇作家・秋田雨雀らと親しくなります。さまざまな文化人と出会い、創作意欲をかき立てられたエロシェンコは、「早稲田文学」などに詩や童話を発表するようになります。それは口述筆記で書かれた作品でしたが、思想家・大杉栄やジャーナリスト・神近市子、新宿中村屋の創業者・相馬黒光などに認められるようになりました。
また、あちこちの講演会でエスペラントで思想問題を話しては人気を博したと言います。1916年にはタイ・ビルマ・インドを旅し、ビルマでは盲学校の教師を務めたりもしましたが、インドで国外追放となり、日本に舞い戻ります。
ビルマ滞在中の1917年、エロシェンコが28歳のとき、ロシア革命が起こります。そのため彼は、ますます階級社会のひずみに義憤を抱くようになります。その精神は作品にも影響を与え、例えば、王女と漁師の悲恋を描いた「海の王女と漁師」という童話にも、無政府主義的な思想がありありと反映されています。それだけならプロレタリア文学や、ある種の障害者の文芸として画一的に見られる恐れがありますが、彼の場合は、登場人物のふとしたしぐさの中に深い人間心理の機微などを描き出しています。また、支配者側を糾弾するばかりでなく、「せまい檻」という童話では虎や羊に託して、小市民の奴隷根性に嫌悪と悲憤を示しています。
1912年、32歳のとき、メーデーに参加し、ソ連のスパイではないかという嫌疑を受けて、ウラジオストクへ国外追放となります。共産主義者への弾圧の風が吹き荒れてくる時代でした。しかしエロシェンコは東シベリアのチタから北京へ向かい、作家の魯迅などとも親交を結びます。その後、東南アジアを放蕩したり、ヘルシンキの万国エスペラント大会に出席するなどしてロシアに帰国します。大変な行動力です。彼はそのことを「自然にあこがれながらも大都会ばかりをさまよい、悲惨な現実を見せつけられた」と振り返っています。有名人好きのようなところもありますが、その時々で手を貸してくれる人を見つけるのがうまかったのでしょう。
日本に滞在したのは10年ほどでしたが、日本語のうまさは誰もが舌を巻くほどであったそうです。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)よりも日本人らしかったとも言われています。日本の児童文学に新風を吹き込んだ貢献度から、日本文学全集に収められている例もありますが、まさしくその発想を育んできたのはアジアであると言ってよいでしょう。日本に来てから才能を開花させているところが、私たちには誇らしくもあります。
帰国してからはあまり認められず、不遇のうちに亡くなりましたが、心配にはおよびません。教師や音楽家になった同級生たちが歴史の闇に消えていったのに比べて、エロシェンコはこうして何十年も経ってから私たちの胸に鮮やかによみがえってきます。芸術にとってそれほどの誉れはありません。
近年になってようやくロシア語やウクライナ語でも作品集が出版されていますが、数は多くありません。多くの作品は日本語で残っています。機会があれば、その作品に触れてみてください。