20世紀におけるロシアの作曲家イサーク・ドゥナエフスキー
一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。
テーマ:「20世紀におけるロシアの作曲家イサーク・ドゥナエフスキー」
講 師:スレイメノヴァ・アイーダ(教授)
さて、彼については2017年にも別のテーマで触れましたが、その時は彼の一生涯についてはお話しませんでした。彼はどのように音楽に携わるようになったのか、今日はお話します。
1900年、ドゥナエフスキーは現在のウクライナに生まれました。ユダヤ人の家系です。母親がピアノを弾く影響なのか、子どもの頃から卓越した音楽的才能がありました。即興で行進曲やワルツを弾くこともありました。
1910年には音楽学校に入学し、ヴァイオリンとより専門的な作曲方法を学び、1919年に彼はオーケストラのヴァイオリニスト、コンサートマスターとなります。そして1920年には劇場で作曲家及び指揮者として仕事をし、「フィガロの結婚」の音楽で演劇作曲家としてデビューしました。
彼が都市部のモスクワに引っ越したのは、1924年のことです。エルミタージュ劇場の音楽監督に就任しました。1927年には、自作のオペレッタ『花婿たち』がモスクワ・オペレッタ劇場で上演されました。
彼の音楽人生はここまでも順調のように見えます。しかし、大きく飛躍し、一躍有名になったのは、1934年のソ連製ジャズ・コメディー『陽気な連中』の劇中曲を担当してからです。奇想天外でハチャメチャな喜劇は、日本でも知っている人が多いかもしれません。ということは、ロシアでは知らない人はいないということです。
その後も、とにかくたくさんの曲を作りました。14のオペレッタ、3つのバレエ、3つのカンタータ、80の合唱曲、80の歌曲、88の劇音楽、42の映画音楽、その他オーケストラのための作品、ジャズの作品、ピアノの作品などさらに160曲ちかくも作りました。音楽の方向性は多岐にわたります。
以前もお話ししたように、行進曲はとても人気です。今でもプレゼンテーションなど発表の入場曲に使われるものもあります。
しかし、当時の彼の人気は良いことばかりではありませんでした。彼が活躍した時代はスターリン政権真っ只中で、制限が多くありました。彼の作る音楽の多くは、ユダヤ人がテーマとなっており、否定的な官僚たちにより公開されないこともありました。
そのストレスなど心労がたたったのかもしれません。ドゥナエフスキーは、1955年7月25日に 心臓発作が原因で亡くなりました。
彼は、ソビエト音楽のジャンルの形成に多大な貢献をしたことに間違いはありません。色々な音楽をたくさん作った彼は、ソビエト音楽の創始者と言えるでしょう。
最後に彼の作曲した有名な映画音楽を聴きましょう。
- 「グラント船長の子供たち」(ジュール・ヴェルヌの冒険小説の映画化、1936)の序曲
- 「私の国は広い」という歌は大ヒットの行進曲となった。
- 小さな黒人の赤ちゃんには素晴らしい子守歌
- 戦争時代の歌、「我がモスクワ」(1943)フヴォロストフスキー歌手の演奏
- 「春」(1947)女優オルローワの演奏と踊り