ロシアと日本のきわめて濃厚な歴史的関係について
ロシア極東国立総合大学函館校 事務局長 町田 昭之助
1992年の8月2日、当時私は本学に近い弥生小学校の校長をしていた関係で、その前年の9月に函館市の市長や教育長と一緒に訪問して覚書交換(事前約束)した「ウラジオストク第78小・中学校」の児童・生徒の代表や校長先生をはじめとするロシア側教育関係者の皆さんと1年ぶりに函館で再会して、体育館で姉妹校の盟約書調印式を無事に終えることが出来ましたが、その時、ロシア極東大から秋田県国際交流協会と秋田経済法科大に派遣されていたヴィクトル校長先生がその場の同時通訳を引き受けてくださり、「素晴らしい日本語を使う人だなぁ」と感心したことを今でも覚えています。
私は、現在「函館オーストラリア協会」の会長をしている関係で英語圏の方々とも交流を重ねていますが、日本の同時通訳の第一人者といわれる「サイマルインターナショナル」の村松増美会長が講演の中で「これからは英語オンリーの時代から、英語をベースにしたロシア語や中国語が必要な時代が必ず来ます」と断言していたことを思い出しますが、最近は道南でもロシア語を習いたいという市民層が増えてきて、この動きはまさに日本とロシアの新時代を象徴する社会現象となることに、もはや疑いを抱くことは出来ません。
さて、ロシアと日本、とりわけ函館との関係については、改めて紹介するまでもなく古くは明治の時代までさかのぼりますが、函館港が世界に向けて門戸を開いたことが直接の引き金になって、その後徐々に各国の人々との交流が盛んになり、1910年代に入るとロシアの人々が増え始め、ピーク時の1930年(昭和5年)には函館市内に居留するロシア人総数120人という当時の日本としては到底考えられない人数にのぼっています。ちなみに、その年の市内の外国人居留者は全部で331人でロシアに次いで第2位が中国、第3位アメリカ、第4位がイギリスの順になっています。
私の父は、昭和の初期から市内で船舶機械の売買ブローカーを職業にしていたこともあって、ロシアの人々とのつき合いもあったらしくロシア語も日常的に使っていたようでしたが、しかし、その時代の外国との交易の統計を調べるまでもなく当時の函館西部の港付近では特に目新しいことではなく世界各国の人々が寄り集まって商談を取り交わすといった光景があちらこちらで見られたそうです。
このように、ロシアにおける最初の日本に関する文献『日本誌』が刊行されてからすでに260年、ゴローニン艦長と高田屋嘉兵衛との係わりが出来たのが185年前そして、函館(当時「箱館」)にロシア病院、ロシア領事館(いずれもその後焼失)それに、救主復活聖堂(現ハリストス正教会)が最初に建てられたのが1859年(今から138年前)のことですから、ロシアと日本の国交を論ずる以前に先ずロシアと函館の市民レベルでの交流・交易の歴史的事実を重視した議論を期待したいところです。
時により、国と国との政策の対立によってそれまで日常的に友好関係の深かった両国国民(市民層)の間に大きな亀裂を生むことが少なからず見られますが、そうした事態に対して私たち自らが声を発し、悲しみの心を大きくあらわして友好の絆を維持しようと努力することが今後の21世紀新時代に不可欠の課題ではないでしょうか。